2024.11.10
島民インタビュー
島がいちばん自分らしくいられる場所だと気づいた
今回は、2024年1月に埼玉からUターンで島に戻ってきた平嶺悠さんにインタビューしました。
悠さんの暮らす上甑島・里地区はトンボロの上にある集落で、940名(2024年10月現在)ほどが暮らしています。
高速船やフェリーが発着する里港があり本土へのアクセスが良く、「高速船甑島」川内港高速船ターミナルまで最短50分、「フェリーニューこしき」串木野新港まで最短約75分。地区内に放課後児童クラブ・保育所・小学校・中学校があり、子育て世帯も多く暮らす地域です。伝統的な行事や祭りがあり、イベントなども定期的に開催され住民同士の交流が活発な地区です。
そんな里地区で生まれ育った悠さんに、Uターンを決心した経緯や、いまの島に対する想いの変化について伺いました。
都会で必死に働いた20代、そして島に戻ることを決意
中学卒業後、高校進学のために『島立ち』をした悠さん。短大卒業後は都内で働いていましたが、親からの強い希望で渋々島に帰ることにしました。しかし、地域内での密な関わり合いや周りの目にも疲れ、親に対してもケンカ腰になってしまい会話も少なくなっていったそうです。結果として、2年ほど経ったころに再び島を出て、埼玉で就職することになりました。
望んでいた都会での暮らしですが、仕事に追われる毎日で余裕がなくなってしまい、ついに体調を崩し入院することになりました。また、余裕のなさから、人に優しく出来なくなってしまった自分がどんどん嫌いになったと当時を振り返ります。体調を崩してまで頑張らないといけない事なのか?自分じゃなくてもいいんじゃないか?と疑問に思い、会社の駒として働くことにやりがいをなくし、もっと自由に自分らしく生きるため、仕事を辞めてもう一度島に戻る決断をします。
また、入院した際には、すぐにお母様が島から駆け付けてくださったそうで「改めて親のありがたみを感じた」と悠さん。親の近くで暮らして、これからは自分が親を支えたいと思うようになったそうです。仕事がハードでどんどん痩せていく娘をずっと心配していたご両親は、悠さんが仕事を辞めて島に帰ることを知ったとき「本当にほっとした、、」「娘が近くにいてくれて嬉しかった」と当時を振り返ります。
自分にできることがあればやりたい!
仕事は、島に帰ってからゆっくりと探そうと思っていましたが、すぐに色々な人から声がかかります。もともと、子供が好きで保育などの仕事にも興味があったこともあり学童で働くことになりました。仕事について尋ねると「子どもたちは本当に可愛い!毎日すごく楽しい!」と楽しげな様子を見せてくださいました。
以前、島で暮らしていたときは、地域の人からの頼まれごとなども面倒に感じる事もあったようですが、今は「頼られる事が嬉しく、自分に出来る事があれば色々とやりたい」と思えるようになったそうです。煩わしく感じていた人付き合いも、色々と聞き流したり、言いたいことはちゃんと言えるようになったりと、周囲との関わり方が上手になったことで、一度は離れた島も居心地が良くほっとする場所になっていきました。
ここにしかない景色を、何気ないことで笑える今を大切に
「花を愛でる余裕ができ、虹や月がきれいだと感じられ、島に戻ってきた事を何も言わず受け入れてもらえる環境に感謝し、ここにしかない景色・色を取りこぼさない様に目に焼き付けている毎日、何気ない事で笑える今を大切に生きたい」
島の暮らしだからこそ、味わうことのできる時間を存分に楽しむ悠さん。また、子どもの頃に実家が自営業だということもあり、家族で旅行はあまり行けなかった分、晴れた日はご両親がお弁当を作って出かけ、家族で過ごす時間をとても大切にしてくれたそう。親にしてもらったことを自分が親になったときは同じようにしてあげたい、と大人になった今でも、お弁当を持ってご家族とのお出かけを楽しんでいます。
島の暮らしで大変なことを尋ねると「夜が長い!!どこか出かける場所もなくて、18時には夕食を済ませるので夜がとっても長く感じる」と話す悠さんですが、長い夜は書道やハンドメイドなどの趣味を楽しむ時間にもなっているようです。
人のつながりを大切に自分らしくのびのびと
最後に、これから島に暮らすことへの想いを伺いました。
「島の暮らしをとても気に入って、楽しいことをして生きられている今、また人に優しくできるようにもなりました。島には助けてくれる人がいっぱいいて、自分を必要としてくれる人もいっぱいいます。これまで両親が作り上げてきた信頼や信用を崩さないよう人とのつながりを大切に自分らしくのびのびと暮らしていきたいです。」
島がいちばん自分らしくいられる場所だと気づいた悠さん。島を離れたからこそ気づく、日々の何気ないけれど愛おしい瞬間を大切に、存分に島での暮らしを味わっています。